ホワイトライン

                     K大付属病院  


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― ホワイトライン ―



夜。学校のグラウンド内で、楓はCa(OH)2でラインを引いた。その内側に楓は入りながら、自己のレポート用紙を燃やす。それは赤々と耀いた。誰にも気付かれない内に、
楓はNaHCO3を使って、心理の軌跡を消す。月だけが、その光景を映している。

楓(かえで)は学校から家に着くと、公務員をしている母親とお喋りをしながら、早速、ミルクティーを作り始めた。しばらくして、それが出来上がって自分の部屋へ入っても、彼女は酷く猫舌だったので、ティーカップに両手を触れて温めながら、その少し泡立ったミルクティーの表面を黙って見つめていた。

両手が温まってくると、楓は学校で使っている化学のノートを机に広げながら、人が誰かを好きになったり、嫌いになったり、無関心になるのは、一種の化学反応なのだと思った。だったら、自分が好きな相手が、ずっと自分を好きでいてくれるように、その化学反応を操作出来ればいいと思いつく。

反対に、自分が苦手な相手に酷く好かれたり、付きまとわれたりした場合は、今度はそれが逆反応になるように、その相手が自分を嫌いか無関心になってくれるように化学反応式を操作出来れば、この世は住みやすくて、幸せな場所になりそうな気がした。

それは人間関係だけでなくて、勉強、仕事、習い事、趣味、お料理、子育て、何にでも応用出来そうだった。それは魔法のようでもあり、アンフェアな化学実験にも見える。面白そうな使い方は、新しい化学反応式を使って、自分が風のように誰の目にも映らない透明人間になること。

そしたら、楓は透明な姿のまま是非してみたいことがあった。それは、楓の好きな相手がアルバイトをしているショップに行って、彼を自由に眺めていること。目が合うと、風が吹いたように呼吸が乱れるので、楓は少し遠くで、その姿を透明な姿のまま見ていたいと思った。

でも、そんな非現実的な願いが叶う訳もないから、また平均的な日常に追われるように自分は生きるしかないのだと楓は思った。でも、彼には会いたい。新しい化学反応式で透明人間になって、楓は好きな時に、いつでも彼のそばにいたいと思った。そう考えながら猫舌の楓は、すっかりぬるくなったミルクティーをようやく飲み始めた。



「どう、西沢君、少しは慣れてきた?」と、カウンターの中で隣から美大生の四之宮麻美から慧(さとし)は声を掛けられる。

このCD・DVDのレンタルショップで慧がアルバイトを始めて、まだ1ヵ月も経っていなかった。その証拠のように、慧のボーイの様に洒落たショップの制服の胸元には、見習い中のバッジが付けてあった。

「はい、何とか」と、慧はパソコンに業務伝票を入力しながら、隣でそれにミスがないかをチェックしている様子の麻美に、そう答えた。麻美の香水の香りが、慧の肌にも少し移ってきそうだった。今日は土曜日だから平日よりも麻美の香水が強めなのかもしれないと、慧は思った。その日のアルバイト時間を終えて、慧がそのショップを出ると、入店時とは違って外は雨が降り始めていた。傘を差している人達の姿もあった。慧は、雨雲で厚くなった冬空を少し見上げると、近くのコンビニで傘を買うこともなく、駅ビルまで足早に急いだ。



駅まで辿り着くと、慧は自動販売機の読み取り機にICカードを翳して、H2CO3の入った飲料を買う。雨まで降り始めていた寒い冬の夜に、あえて彼がその冷たい炭酸飲料を買ったのは、走った訳でもないのに、妙に咽喉が乾くからだった。それを飲みながら、慧は、今日の夕方に新規会員として申し込んできた女子のことを思い出していた。栄蘭高校の生徒だということが、身分証明書として彼女が提示した学生証で分った。以前使っていた会員カードが期限切れになって、彼女は再度、申込みをしたのだった。

その栄蘭高校の女子と目が合った瞬間、慧は妙な感覚を覚えた。彼女の名前は、青木楓。申込み伝票を入力しながら、自然とその名前を憶えてしまった。慧は、その女子には異性としての興味は感じなかった。でも、それとは別の感覚で、強く作用する引力のようなものを相手に感じた。

だけど、それは僕の気のせいだろうと慧は思いながら、H2CO3の入った飲料を飲む。咽喉を切られるような冷たさがそれにあったが、慧は大きなマフラーをしていたので、その暖かさと均衡が取れて、それも少し心地よかった。

しばらくして、東急田園都市線の電車が前照灯で夜と雨を切り分けるようにしながら、慧のいたプラットフォームまで滑り込んできた。―まだ、僕は生きなければいけない―、と慧はその電車の前照灯に目を細めながら、心の中で誓うようにそう言った。



Train schedules are greatly disrupted due to thesnow. By Yuki。



窓の外からは、チェーンの巻かれた車のタイヤが雪で氷結した路面を削りながら普段よりゆっくりとしたスピードで走る音が聞こえていた…。でも、楓は部屋のカーテンをまだ開けようとはしない。せっかくの日曜なので、まだベッドの中で、お気に入りのぬいぐるみと一緒に寝ていたかった。夜、雨から雪へと変わった天候の情報は、親友のユキが、なぜか英文で携帯に朝一でメールで送ってきていた。試験対策なのかもしれない、と楓はそれを見て思った。


最近、学校では、フライトのflyをfryなどと全世界に強気なブロークン・イングリッシュをサリンガスのように散布してネットで発信している2020年の五輪誘致に熱心な新都知事のことが話題になっていた。国際都市トウキョーの知事が使う英語が、あれでいいのかという話だった。

だが、英語の女性教諭であった園田恭子は、そうした新都知事の出鱈目な英語の使い方を非難することもなく、日本人が慣れない英語での表現を積極的にすることで、次第に、語学力もアップするので、みんなも是非、英語やその他の外国語を学んで使って欲しいという話を聞いたばかりだった。日本人の好む完全主義や控えめさは、語学の上達においてはマイナスに作用するらしい。

楓は、高校では理系のコースを選んだので、文系的な学問には特に愛着や興味は無かったけれど、英語ぐらいは出来た方がいいと思っていたので、偶には、英文を読んだり、聞いたりするようにしていた。FlyとFryを混同するような大人にはなりたくなかった。

将来は、薬剤師か母親のように公務員になろうと考えていた。何となく、安定した職業がいいような気がしたのだった。原子の上にある剥離しやすい非共有電子対のペアのような脆い生き方は、嫌だった。

そして、まだ閉じられたままのカーテンを見ながら、あのショップで働く男子のことを思った。彼は、どこの学校へ行っているのだろうか。年上なのか、年下なのか、あるいは、同い年なのか、楓にとっては全てが謎だった。

彼に関する情報が苗字しか分らないなんて、ほぼ絶望的だった。試験であれば、確実に落ちている状況。その苗字さえ、もしかしたら違っているかもしれない。接客時に受け取る領収書に書いてある名前なんて、あてにはならない。

「もし、違っていたら怖い」と、楓はベッドの中に入ったまま、氷結した雪を削る外の気配に耳を澄ませていた。



昨夜のアルバイトの帰りから降り始めた雨は、夜中から大雪に変わったらしい。真昼時の今は、もう雪も止んで、雪焼けしそうなぐらいの強い日差しが周囲に反射していた。慧は、ベージュ色のムートンのダッフルジャケットに、襟元には雪柄の入った紺のマフラーを巻き付けていた。手袋は、携帯が使いづらくなるので使わない。それ用に、指貫された手袋を使っていた友達もいたけれど、慧は、それに不格好さを感じたので、それは使わなかった。

地元で降った雪に直接触れられることが、そもそも首都圏では珍しいのだから、むしろその感覚を素手で味わいたいと、彼は思った。


― この世で圧倒的に足りないのは、幸福なんだ― 都会では珍しい大雪で氷結した路面を注意して歩きながら、慧は、そう考える。アルバイトをしているCD・DVDショップには、膨大な数の映画や物語のタイトルが並んでいる。その棚の前で立って、目を閉じて適当なものを取り出してその粗筋を読む。

その殆どが、人間の不幸、悲しみ、欲深さ、情欲、詐欺、暴力、犯罪、騒乱、理不尽、恐怖、性倒錯や死などを扱っていた。その証拠のように、「幸福」いうジャンルの物語の区分は、どこにもなかった。それは、ショップの外に出ても同じような気がした。異常に暑かったり、この大雪が降ったように寒かったり、暴力的な台風やじめじめした梅雨、頻発する地震、風評も含めた放射能の被害。天候ひとつだけとってみても、この世は地獄のように慧には見えた。

だが、慧は学校にいる時は、そんな素振りを露ひとつ見せることもなく、勉強もスポーツも、遊びもバイトもする、平均的な普通の生徒のように振る舞っていた。実際、彼の外見は傍から見ると、特別な悩みや苦しみのない明るい好男子に見えていたのだった。最近、慧は彼と同じ高校生が、所属するバスケット部顧問の体罰を苦に自殺したというニュースを知った。


― 僕が、あの数学教師の平山博に受けているアレも、体罰なのだろうか ―と、慧は雪景色に包まれた銀世界を見て、それを思い出しながら考えた。ただ、教師の平山は、体罰を苦に自殺した生徒にように彼を罵倒することはなく、逆に慧のことを可愛い、愛してると、何度も耳元で囁くのだった。

それを合図に始まる平山の慧への一連の行為は、自殺した生徒が受けた暴力とは性質とベクトルが真逆なだけで、やはり、同じような暴力なのかもしれないと、慧は思った。

だが、手持ちのカードは安易に切り捨てないで保持しておくべきだと慧は思った。後に何かに利用出来るかもしれない。現に、世間には口外することが出来ない平山の愛顧を受けている慧は、学校では様々な便宜を図って貰っていた。

試験のこと、望んでいる難関大学への推薦入学の手配、他の教師達の裏の顔や生徒の事情についての極秘情報、平山は生徒の慧への一連の如何わしい行為の後、報酬のようにそれらを教えてくれるのだった。


美人の婚約者もいるというのに、何故、数学教師の平山は僕を愛人みたいに使うのか、慧には、彼の数学の授業以上に解せなかった。ただ一つだけ慧に分っているのは、この世の色々な地獄から、人は脱出すべきということだけだった。不幸や悲惨に溢れたこの世界では、いつか自分はそのストレスに耐えられなくなって、殺人か自殺をしてしまうようで怖かった。普通に彼女とデートをして、まともな大学へ行き、まともな会社か研究所で働き、結婚して、早く子供を作って、平凡でも幸せな家庭を築く。

そんなごくありふれた望みさえ、異常なハードルの高さとなって慧の前に聳え立つ程、この世は彼に過酷な世界に映ったのだった。その一つの証拠が、胸元から慧の少女のように美しく整った顔立ちの口唇までせり上がってきた。彼は、口元に手を添えながら急いで通行人の見えない路地裏へ回り込んだ。慧は冷汗が滲んだ額で、周囲で人がこちらを目撃していないのを確認してから、自己の暗闇を吐き出した。

それは、その場にあった雪を真っ赤に染めて、鮮やかな色を描いた。それは、見ようによっては、小さな子供が描いた天真爛漫な太陽にも見える。

もし、赤いトナカイみたいなものが存在するのであれば、そうにも見える。まだ、僕は、死ぬ訳にはいかない……、と慧は雪に反射する、その赤い液体を見ながら思った。




                         

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